19世紀なかばから東アジア世界に西欧列強による脅威が迫ってきた。清はそれまで広州一港に貿易を限っていたがイギリス(大英帝国)は1840年と1857年のアヘン戦争および第二次アヘン戦争により南京条約(1842年)、天津条約(1858年)および北京条約(1860年)を結び多額の賠償金と香港、九竜半島の割譲、上海など11港の開港と領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、片務的最恵国待遇、公使の北京駐在、キリスト教の公認と保護などを清に認めさせた。また日本に対しては1853年と翌年アメリカ合衆国は東インド艦隊司令長官ペリーとその艦隊を派遣し軍事的威圧のもとに日米和親条約つづいて日米修好通商条約を江戸幕府と締結し、これにより5港の開港と領事裁判権、片務的最恵国待遇、関税自主権喪失などを認めさせ(後に英、露、蘭、仏とも)幕府の二百数十年続いた鎖国を終わらせた。
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幕末には攘夷論が台頭するがそれを克服し、戊辰戦争の後明治政府は西洋文明の積極的な受容による近代国家の建設、幕府が結んだ西欧諸国との不平等条約の改正と南下政策を進めるロシア帝国との国境確定および東アジア諸国との外交関係の再構築と版図の確定という課題に取り組んだ。また清でも1860年代から漢人官僚曽国藩、李鴻章らによる近代化の試みとして洋務運動が展開され中国の伝統的な文化、制度を土台としながら軍事を中心として西洋技術の導入を進めた。
明治政府は1868年末、王政復古を伝える書契を朝鮮に渡そうとしたが、その形式が従来と違い文中に中国皇帝のみが使用する「皇」や「勅」の語があったことで、朝鮮側はそれらは朝鮮にたいし日本を上位におくととらえ、また近代化を進める日本を「仮洋夷」として警戒してその受け取りを拒否、その後数年間交渉が進展しなかった。 この時朝鮮では幼い国王高宗にかわりその実父興宣大院君が実権を握り、外戚安東金氏の専横と古い体制を打破しつつ、1866年8月のアメリカ武装商船ジェネラル・シャーマン号事件と10月のフランス人宣教師9名の処刑(丙寅教獄)、その報復として江華島へ侵攻したフランス艦隊との戦闘(丙寅洋擾)など華夷思想による強固な鎖国・攘夷政策を実行し西欧諸国との間に重大な軋轢を引き起こしていた。