2009年06月19日

球形の円石藻は光学顕微鏡でも観察でき

球形の円石藻は光学顕微鏡でも観察でき、円石は細胞を取り巻く透明な層として確認できる。個々の円石は大きさが直径数?数十μmであり、また非常に薄いために通常の透過光ではコントラストが付かず確認しづらい。円石の観察には、円石が複屈折性を持つ事を利用して偏光顕微鏡が良く用いられる。円石を偏光顕微鏡で観察すると、屈折した光が風車のような独特の明暗のパターンを示す為、海底堆積物のような混合物の中に含まれる円石を容易に見分ける事ができる。さらに細部の形態観察には、円石のカーボンレプリカを作成して透過型電子顕微鏡による観察を行うか、走査型電子顕微鏡を用いる。

円石の種類と構造 [編集]
円石はホロコッコリスとヘテロコッコリスの二種類に大別される。

ホロコッコリス(holococcolith)
一片が0.1μm程度の、小さな斜方六面体の方解石結晶より成る。円石藻の細胞表面で形成される。
ヘテロコッコリス(heterococcoliths)
方解石に加えて霰石型の結晶から成る円石。様々な大きさ・形状の結晶単位が放射状に配列して構成されている。円石藻の細胞内、ゴルジ体などの器官で形成される。
ホロコッコリスとヘテロコッコリスは従来、異なる種が別個に形成する円石であると考えられてきた。しかし近年、円石藻の培養技術の発達に伴って、円石藻は生活環の各ステージにおいて、それぞれの種類の円石を持つ事が分かってきた。一般に単相(n)の世代はホロコッコリスを、複相(2n)の世代はへテロコッコリスを形成する。つまり一種類の円石藻が、場合により全く異なる形状の円石を付けるのである。これを受けて、今まで分類基準を円石の形状に頼ってきた円石藻の分類体系は、大きな変革を迫られている。
テニス
セキュリティ
花火
仏教絵画
東北地方
壁画
日用品
セパタクロー
印刷
水球
アスペルガー症候群
学習塾
ベリーダンス
北陸地方
水彩画
恐竜
水墨画
両生類
ジオキャッシング
アニマルセラピー

円石の役目 [編集]
円石の役目に関しては諸説あるが、未だ決定的なものはない。これは円石藻に限らず、多彩な形状の外被を持つ藻類や原生動物全般に共通する疑問である。以下に代表的な仮説を挙げる。

浮力制御
円石藻の多くは鞭毛を持たないか、持っていても短く、遊泳に適さない形状のものが多い。そこで円石を付ける事で比重を調節し、また水流の撹乱を捉えやすくする事で細胞の単純な沈降を抑えているとする説。これにより円石藻は有光層に留まると共に、海水中の栄養塩を効率良く得る事ができるとされる。
捕食に対する抵抗・防御
捕食者に消化されにくい無機物の構造物を細胞に付け、細胞全体の栄養価を小さくして捕食圧を下げているとする説。個々の細胞の生存にはさほど貢献しないが、生物群全体では意味のある戦略であると言われている。バクテリアのような小さな外敵に対しては、単純に円石が防御の役割を果たす。
緩衝地帯
緻密な構造の円石はその周囲にある程度の海水を保持しており、これが細胞と外部環境とのバッファとして機能しているとする説。
光制御
円石によって強すぎる光や紫外線を低減している、或いは逆にレンズのような仕組みで葉緑体に光を集めているとする説。
CO2貯蔵
円石は炭酸カルシウム(CaCO3)でできているので、CO2が豊富にある時には円石として貯蔵し、不足時にはこれを溶解して光合成に必要なCO2を補っているとする説。

2009年06月01日

東アジア世界に西欧列強による脅威が迫ってきた

19世紀なかばから東アジア世界に西欧列強による脅威が迫ってきた。清はそれまで広州一港に貿易を限っていたがイギリス(大英帝国)は1840年と1857年のアヘン戦争および第二次アヘン戦争により南京条約(1842年)、天津条約(1858年)および北京条約(1860年)を結び多額の賠償金と香港、九竜半島の割譲、上海など11港の開港と領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、片務的最恵国待遇、公使の北京駐在、キリスト教の公認と保護などを清に認めさせた。また日本に対しては1853年と翌年アメリカ合衆国は東インド艦隊司令長官ペリーとその艦隊を派遣し軍事的威圧のもとに日米和親条約つづいて日米修好通商条約を江戸幕府と締結し、これにより5港の開港と領事裁判権、片務的最恵国待遇、関税自主権喪失などを認めさせ(後に英、露、蘭、仏とも)幕府の二百数十年続いた鎖国を終わらせた。
アレルギー お土産 学習指導 観光 音楽 交通 サプリ 弁護士 やせる 開業 興信所 アレルギー 生命 マッサージ 事務用品 英会話 不用品 楽器教室 動物園 美容室 宿泊施設 矯正 信託 ローン 興信所 仏壇 審美歯科 ギフト リフレ 仏具 資格 中国四国 特産品 予備校 旅館 美容 北海道東北 美容室 キャッシング 料理 結婚 離婚 審美歯科 リサイクル セミナー ゲーム パソコン 地域情報 エステ 海外


幕末には攘夷論が台頭するがそれを克服し、戊辰戦争の後明治政府は西洋文明の積極的な受容による近代国家の建設、幕府が結んだ西欧諸国との不平等条約の改正と南下政策を進めるロシア帝国との国境確定および東アジア諸国との外交関係の再構築と版図の確定という課題に取り組んだ。また清でも1860年代から漢人官僚曽国藩、李鴻章らによる近代化の試みとして洋務運動が展開され中国の伝統的な文化、制度を土台としながら軍事を中心として西洋技術の導入を進めた。

明治政府は1868年末、王政復古を伝える書契を朝鮮に渡そうとしたが、その形式が従来と違い文中に中国皇帝のみが使用する「皇」や「勅」の語があったことで、朝鮮側はそれらは朝鮮にたいし日本を上位におくととらえ、また近代化を進める日本を「仮洋夷」として警戒してその受け取りを拒否、その後数年間交渉が進展しなかった。 この時朝鮮では幼い国王高宗にかわりその実父興宣大院君が実権を握り、外戚安東金氏の専横と古い体制を打破しつつ、1866年8月のアメリカ武装商船ジェネラル・シャーマン号事件と10月のフランス人宣教師9名の処刑(丙寅教獄)、その報復として江華島へ侵攻したフランス艦隊との戦闘(丙寅洋擾)など華夷思想による強固な鎖国・攘夷政策を実行し西欧諸国との間に重大な軋轢を引き起こしていた。

2009年04月29日

石動山

石動山(せきどうさん、いするぎやま)は、石川県鹿島郡中能登町を頂上に、七尾市・富山県氷見市にかけて位置する山。標高は565m。

SEM促進・転職関連マネービジネス検索エンジン
実益・生活関連みんなの住まい情報
包茎・インポテンツ関連健康・医学コラムCOM
ホシバナウェブお買い物サーチ
アンポンタン暮らしの学習総合
チケット予約・遊園地関連宿泊タウン総合
ポスト美容整形ガイド
老人ホーム・経営コンサルタント関連経済生活検索エンジン
ウエリントン暮らし上手情報
介護・予防法関連健康・医学倶楽部情報

加賀、能登、越中の山岳信仰の拠点霊場として栄え、石動山に坊院を構えた天平寺は、天皇の御撫物の祈祷をした勅願所である。最盛期の中世には北陸七カ国に勧進地をもち、院坊360余り、衆徒約3,000人の規模を誇ったと伝えられる。祭神は五社権現と呼ばれ、イスルギ修験者たちを通じて北陸から東北にかけて分社して末社は八十を数える。南北朝時代と戦国時代の二度の全山焼き討ちと明治の廃仏毀釈によって衰亡した。山頂一帯は国の史跡に指定されている。

開山は紀元前92年(崇神天皇6年)とも717年(養老元年)とも言われ、延喜式に伊須流岐彦神社として登場する。後に、虚空蔵求聞持法の修法や修験的な峰入り行が盛んになり、真言宗の寺院となって隆盛を極めた。後の太平記や太閤記が記すように任侠武勇をもって知られ、南北朝時代には宮方の越中国司中院定清をかくまったため、足利尊氏の命を受けた越中守護普門利清に焼き討ちされて一時衰退した。

戦国期には復興し、北陸に一向一揆勢力が勃興する中でも隠然たる勢力を誇ったが、天正10年(1582年)、本能寺の変直後の混乱に乗じて、越後の上杉方についていた能登畠山氏旧臣が蜂起し、天平寺衆徒と共に石動山に立て籠った為、前田利家、佐久間盛政、長連龍らの織田軍に焼き討ちされ、再び全山焼亡した。このときの焼き討ちは、主君信長の比叡山延暦寺焼き討ちに似ているともいわれ、数百人の法印のみならず児童子まで撫で斬りにしたとか、千六十の首を山門の左右に掛け並べたなど、凄惨な弾圧がなされた。

近世には前田家により復興されたが振るわず、明治に入って施行された神仏分離政策のもとほぼ全ての院坊が破却され、以後復興されることなく廃寺となった。

2009年04月14日

著名な中国の宦官

豎刁 - 春秋時代の人。斉の桓公の家臣で、自ら後宮の管理を願い出て去勢した。自宮宦官の始めと伝えられる。桓公死後に斉の政治を乱した。
趙高 - 秦。李斯と共に始皇帝の死を秘して、二世皇帝胡亥を擁立した。宦官の概念を悪化させた元凶とされる。
蔡倫 - 後漢。紙の発明者。
十常侍 - 後漢。霊帝に仕えて中常侍の官にあった宦官集団の事。ただし、正史によれば、実際には12名いたという。
黄皓 - 蜀。劉禅に仕え、蜀の実権を握り自分勝手に人事を変え、蜀の滅亡の元凶となる。
高力士 - 唐。玄宗に仕え、皇帝に代わって雑事を取り仕切った。
李豬児 - 唐。契丹の出身者で安禄山に仕えた。安禄山自身の手で去勢されたエピソードで有名。
童貫 - 北宋末。皇帝徽宗の寵愛を受け、軍の指揮官として方臘の乱を鎮圧した。
鄭和 - 明。南海大航海を行った。
劉瑾 - 明。正徳帝期の初めに政治を専断した。自ら帝位につこうと謀反を企てたために凌遅刑で処刑された。
魏忠賢 - 明。天啓帝に代わって政務を壟断し、各地に自らの像を収めた祠を作らせるほどの権勢を誇った。
董海川 - 清。皇族の武術教師。八卦掌の創始者。
李蓮英 - 清。西太后に重用された。

朝鮮 [編集]
朝鮮も中国に倣い、自国の官僚機構に宦官制度を導入していた。

現存する朝鮮最古の歴史書「三国史記」の巻10「新羅本紀」には、新羅の第42代「興徳王(ホンドクワン-こうとくおう)」(生年不詳 - 826年即位 - 836年没)が、王妃の章和夫人が即位後2ヶ月で死去してからは、後妃を迎えず、後宮の侍女も近づけず、宦官に身の回りの世話をさせたとの記述があり、9世紀にはすでに宦官制度があったことが分かる。

高麗(918年 - 1392年)や李氏朝鮮(1392年 - 1910年)にも宦官制度が存在した。去勢の方法は、中国のように陰茎を切除することはなく、睾丸のみを切除していたとされる。また、自国の官僚として使用しただけではなく、自国民を宦官にして歴代の中国王朝に貢進していたことでも知られる。

元の順帝(1320年 - 1370年)時代に後宮に権勢を振るった朴不花は、高麗から貢進された宦官であり、また1403年(明の永樂元年)には、「明の皇帝の聖旨を奉じ、容姿閑雅、性質利発な火者(宦官の別称)35名を選抜して貢進した」という記録が、朝鮮側の記録に残されている。

1894年の甲午改革で宦官制度は廃止された。

現在の韓国・ソウル市鍾路区にある孝子洞(ヒョジャドン/???)は、かつて退職した宦官が住んでいたとされ、「火者洞(ファジャドン/???)」と呼ばれていたという。

西アジア・地中海地域の宦官 [編集]

古代オリエント [編集]
宦官は古代エジプトやアッシリア、アケメネス朝ペルシャ帝国といったオリエント諸国でも用いられた。やはり中国同様刑罰として去勢されるようになったものが発端である。役割としては中国同様後宮に仕える者が多かった。

古代ギリシア・ローマ〜東ローマ [編集]
宦官は、オリエントの影響を受けた古代ギリシアやローマ帝国、及びそれを継いだ東ローマ帝国でも用いられた。オリエントやギリシア・ローマでも宦官は宮廷内部の雑用係中心であったが、ローマ帝国後期以降に皇帝権力が強まると高級官僚の世襲を防ぐ為に宦官を高級官僚に用いることが多くなった。

キリスト教化した東ローマ帝国では官僚として重く用いられ、軍隊の司令官やキリスト教東方正教会統率者のコンスタンティノポリス総主教にまで宦官が多数任命された。例えばユスティニアヌス1世の時代に対東ゴート戦争を指揮したナルセス、フォティオスと総主教位を争ったイグナティオス、ニケフォロス2世フォカスの治世からバシレイオス2世の治世初期に権勢を振るったバシレイオス・ノソスなどは宦官であった。ちなみにイグナティオスとバシレイオス・ノソスはそれぞれミカエル1世ランガベー、ロマノス1世レカペノスの息子であり、失脚した皇帝の子孫から、皇帝を狙って反乱を起こす者が出ないように去勢された者が居たことを示している。

中国のように宦官が皇帝の寵愛を背景に実権を握った例は多いが、国家の正規の官職に宦官が多数任命された国家は東ローマ帝国だけであろう。このように東ローマ帝国は宦官を重用したため、中国同様、自主的に去勢して宦官を志願したり、親が子供の出世のために子供を去勢してしまう事例が出て来た。またキリスト教の普及に伴って、自ら欲望を絶つ目的で去勢する者も現れた。その流行は凄まじく、民間での去勢を禁止する勅令が幾度も出されるほどであった。

11世紀末-12世紀に入って、軍事貴族出身のコムネノス王朝が成立すると、11世紀まで文官官僚として軍事貴族と対立していた宦官の勢力は弱まっていった。その後、12世紀末以降帝国が衰退していくに連れ、宦官の供給源となる属州が失われ、帝国の財政力も低下していったため、要員を雇うことができず宦官は激減していった。

イスラム諸国の宦官
一夫多妻制であったイスラーム諸国ではオリエントの伝統を受け継いで宦官が用いられた。特にオスマン帝国では宦官は後宮(ハレム)を取り仕切り、陰の実力者として振舞い、政治の実権を握ることもしばしばあった。

イスラム諸国の特色としては、コーランに記載されている教義上の去勢禁止規定を回避するために、イスラム教徒以外の男性(多くは少年)を去勢して宦官とするのが原則であったため、外国人である黒人や白人の宦官が多く採用されていた。彼らの多くは、戦争で捕虜となるか、奴隷として売られてきて、宦官にされたものである。ガージャール朝の創始者アーガー・モハンマド・シャーも幼年期に捕虜として去勢されていたが、後に脱走を果たして勢力の再結成に成功し、宦官として王朝を開いた一つの例である。当然ながら彼に子供はおらず、死後甥(ファトフ・アリー・シャー)が帝位を継いだ。

イスラム諸国の宦官の去勢の方法は、男性器全てを除去する完全去勢と、陰嚢または両方の睾丸のみを切除する不完全去勢とかあり、去勢奴隷として売られる場合は前者の方が、高価で取引された。なお、イスラーム世界においてもしばしば男色が行われており、宦官が君主ら主人の男色相手をつとめる場合も少なくなかった。

バイオ ハノイ サイト宇宙 セット リーテール たましぎ みたか ニューロ れっど ファンタ アカシデ ひびき ちゅう フォルテ ターミ アイテム セルラ ハイブリ バロッ ファザ 紫キャベツ ライフ ナビキュー 仲よし ネリネ ピープ モデル 龍馬太鼓 きんさ ダウン スリル シームレス スピーチ ドクゼ オフィス ナビデモ スルー シアトル マツム ルーム リアクター デイキ ロースラ モトロ オブジ サンタ マキシ リボソーム デパチ クンミン


2009年03月30日

AV女優になった人に理由を問うと

お金が目当て(多重債務を抱えている場合もあれば、単なる小遣い欲しさでなる場合もある)
性行為への好奇心や、自己顕示欲
綺麗になりたくて
風俗と違って、性病にかかる心配がないから
風俗デビューのキャリアアップ
芸能界に入りたいから(AV業界の明るいイメージ作りのため)
飯島愛に憧れ、一般のタレントになれるかもしれないという夢を抱いている者や、現役のタレントではあるが成功できずに再起を賭けている者が出演する事例が今もあるという。グラビアアイドルになり損ねた女性や、一部のお菓子系アイドルなどがAV女優に転身する事もある(この場合、未成年のうちに芸能人になる事で、成年後AVデビューをすんなり進ませようと考えている場合が非常に多い。)。

1に関しては、小遣い欲しさの短絡的なタイプだけでなく、交際している男性に騙されて多額の借金を背負わされたり、或いは親の借金の肩代りをする様な女性も含まれる。彼女達は当然の事ながら、必死の思いで仕事をこなすが、露見の恐れや、仕事を選ぶために多くが企画女優として活動している。


「企画女優」 [編集]
上述の記事は、主に「単体女優」についてだが、この項では「企画女優」について詳述する。 企画女優になる人の特徴としては、以下の3つが挙げられる。

スタイルは良いが、ルックスに難がある人
AV出演を知人に知られたくない人
アルバイト感覚での出演(1?3本程度の契約、月1回程度の出演など)
企画女優としての出演には、名前を隠す、顔と名前の両方を隠す、という2種類の出演方法がある。

知名度の高い単体女優(少数)に比べて、膨大な人数が企画女優として登録している。その中には、副業としての出演者も多くいる(OL・主婦・看護婦・ファッションヘルスやソープランドのサービス嬢など。最近では教員免許を持つ者や〈自称〉本物の教師が出演する事も増えて来ている。)。   企画は出演料が非常に安い。相場で10万円と言われていたが、現在は5万円も頻繁にあるらしい。反面、セールス数を問われる単体女優と違って引退の時期がない上、一般誌などで宣伝されない(パブNGなどと言う)のでAV出演を周囲に知られる可能性が低く、その気があれば出演を続けられると言われている。逆に、AV女優だけでは食べていけないので、副業を続けながらチャンスを待つAV女優も多い。
バス ブラックタ アセアン 水辺の旅 ルコギ プルメリア リッチシ チョック タンク スクーター ナベル ジャポニ ドラル 朝ごはん はばね 忍耐最適 ファイリン バキュー ソネット ローマ わこう オート パナ フェレット ハイム 虹のパノ スケジュ ユーカリ オパール オリジ キャラバン ハット テロロ ケーオー オフセ ちぎれ雲 レース なかせん 相合傘人 テーブル リスク ビップ イースト ミルク オーライ トラン スネーク ネグレクト オート キネシ

近年では企画女優が注目される様になったが、その背景としては、AV界にインディーズメーカーのブームが起きた事が挙げられる。インディーズメーカーとはビデ倫に加盟せず過激な内容の企画AVを制作するメーカーの事で、作品をレンタルビデオ店に置く事ができず、セルビデオが主体の場合が多い。つまり、インディーズ作品は出演しても周囲にバレる危険が低い。そのため、インディーズ作品には若くて容姿にも恵まれながら周囲にバレるのを恐れる女優が数多く出演する事になり、容姿では単体女優にも劣らない企画女優が多数生まれる事になったと見られる。

「キカタン女優」 [編集]
企画女優の中でも単体女優並みに人気が出て、オファーが殺到し多数の作品に(全く無制限で)出演する場合がある。この様な女優をキカタン(企画単体女優の略)と呼ぶ。 「企画」と「キカタン」とではルックスに差があるが、「キカタン」と「単体」ならルックスに差はない。代表的なキカタン女優の例として、長瀬愛、堤さやか、笠木忍、立花里子、紅音ほたるなどがいる。 キカタン女優のギャラは、読んで字のごとく、企画と単体の中間の金額である。単体なら月に1本と制限されるし、企画なら出演料が安いため、最も稼げるのはこのキカタンだと言われている。 出演本数が多かった例(引退)

朝河蘭:2年で516本=新日本プロジェクト(月21本)
桃井望:2年で160本=ウィナーズアソシエーション(月6本)
長瀬愛:3年で120本=ウィナーズアソシエーション(月3本)
笠木忍:6年で200本=バンビプロモーション(月2.7本)など。
これら4名に共通するのは、2002年頃のAVブーム全盛期に活躍した点である。この代表的な4名の活躍によって(2002年か2003年頃に)キカタンと言う新たなジャンルが登場した。
AVブームが去った後の現在、2007年時点を標準的な尺度とすれば、

乃亜:3年で300本=新日本プロジェクト(月8.3本)
立花里子:4年で170本=名東(月3.5本) ※2008年引退
紅音ほたる:4年で130本=キューピーズプロ(月2.7本)
などが、本来の相場であろう。

「単体女優」 [編集]
一般的に主演した場合の出演料は1作目が一番高く、それ以後は徐々に安くなっていくのが通例である。引退間際は受ける気をなくす程格安と言われている。徐々に安くなる活動を何か月維持できるかが単体の生命線と言える。一般的にデビュー3本契約が大抵であり、その3本目で引退する単体が大部分を占めている。取り引き上の売値では2?3百万円と言われ、AVのセールス本数から逆算してもこの売値は近似値と思われる。

もし折半で払われた場合なら女優の手取りは100万?最高150万と言う計算になるが、単体なら折半と言うケースなど滅多に聞かれない。相場で1/3が単体の取り分となっている。自社に呼びたい事務所の広告によって誇大な金額ばかり噂で広がっているが、これ以上の金額はメーカーが(自社の利益をなしにしてまで)払うなど到底考えられない事である。有り得てわずかな可能性。

例外的なセールス本数にそった歩合制(つまりロイヤリティー制度)も耳にはするが、メーカー側にそこまで面倒を強制する契約を結べる単体は蒼井そら以降で、AV業界に1人でも存在するのか定かではない。単体が高額な理由は、その月内で契約メーカーの1本しか出演してはいけない「1か月の拘束料金」が乗せられているために過ぎない。

素人女性が勘違いする「自分への価値判断」などではない。この単体の売値の大部分は所属するAV事務所に取られ、女優が手にするのはわずかという場合が多い。さらにスカウトで入社した場合ならAV事務所とスカウトマンの2か所に抜かれた後のごく僅かとなる。相場で1/3程度が単体の目安である。

因みに、企画女優の入社は応募入社とスカウト入社が半々と言われるが、スカウトマンは当然美形から狙うため、この単体やキカタンに関してはスカウト入社が8割以上を占めている。企画なら相場があるため、ギャラの予想は付くが、単体はその都度事務所が交渉を行っているため、単体女優はベテランであっても自分の売値を知らない。

キカタンの項目で分かる通り、企画系事務所は幅広いメーカーと付き合っているが、単体系事務所はごく限られた会社(多分10社前後)としか取り引きされていない(単体を単体価格で撮ってくれるメーカー自体が今は10社も存在していない)。

単体デビューのオーディションも同様で、メーカー全社を回る訳でなく、この7?8社を回れば大抵の事務所が合否の結論としている。企画系の事務所が大所帯なのに対して、単体系は数人しか所属していないのが特徴である。社員も数名とか社長1人の会社なども珍しくない。また、1対1でマネージャーが単体を管理しているのが特徴である。単体の撮影日数は大抵2日で、短い場合で1日で撮り終えたり、長い場合で3日間。

2009年03月14日

トマールのキリスト教修道院

トマールのキリスト教修道院(ポルトガル語でConvento de Cristo em Tomar)は、ポルトガルの都市・トマールにある修道院であり、12世紀にテンプル騎士団によって建設された。14世紀にテンプル騎士団に対して解散命令が出た後、ポルトガルに存在したテンプル騎士団は、キリスト騎士団へと改編され彼らが管轄することとなった。キリスト騎士団は、大航海時代 のポルトガルを支え、ポルトガル海上帝国の礎を築いたことで有名である。

1983年に、ユネスコの世界遺産に登録された。
1160年に、テンプル騎士団によって建設が開始された。12世紀の後半には、ポルトガルにおけるテンプル騎士団の本部の役割を果たした。もともと、トマールの修道院及び城塞は、勃興したばかりのポルトガル王国の対ムーア人への防波堤の役割を果たしていた。

テンプル騎士団の円堂は、12世紀に建設された。他のヨーロッパ世界にあるテンプル騎士団の教会と同様に、エルサレムにあるオマール・モスクをモデルとしている。このオマール・モスクは、十字軍がエルサレム神殿の名残と信じたモスクである。また、エルサレムの聖墳墓教会もモデルとなっている。

キリスト教世界の年代記に従うと、トマールの城塞は、1190年に、ヤアクーブ・マンスールの攻撃を耐え抜いたとされる。

キリスト騎士団 [編集]
1312年、全ヨーロッパ世界で、テンプル騎士団の活動が禁止された。しかし、ポルトガルで活動していたテンプル騎士団のメンバーを中心に、当時の国王ディニス1世は新たに、キリスト騎士団を結成した。1357年に、トマールに移ったキリスト騎士団がここを本拠地とした。

トマールのキリスト教修道院のハイライトは、1417年から1460年にキリスト騎士団の団長を務めたエンリケ航海王子の時代である。エンリケは、レコンキスタが終了したポルトガルを大航海時代に飛躍させた立役者であると同時に、トマールのキリスト教修道院では、墓の回廊・沐浴の回廊を増築した。

1484年にキリスト騎士団の団長に就任し、1492年に国王になったマヌエル1世もまた、修道院の増築を行った。円堂へいたる新しい回廊を建設するとともに、修道院内部の装飾や絵画を増設した。

マヌエル1世の後を継いだジョアン3世は、クレルヴォーのベルナルドゥスの宗教観を持った国王であると同時に、1557年には、新しい回廊の建設を命じた。この回廊はポルトガルにおけるルネサンス建築の中でも特筆すべきものがある。

1581年、スペインとポルトガルの同君連合が成立するとフィリペ1世を国王として認めた。スペインとの同君連合時代に、修道院への送水路が建設された。

建築
トマールのキリスト教修道院は、ロマネスク建築、ゴシック建築、マヌエル建築、ルネサンス建築といった様々建築様式が融合した建築物である。

城塞と城壁 [編集]
1160年に、戦略上の拠点として、トマールに城塞が建設された。ナバオン川に近い丘の上に建設された城塞は、城壁と地下室を兼ね備えていた。キリスト教修道院の地下室は、城塞における住居と司令塔の役割を果たし、テンプル騎士団によって紹介されたポルトガル最古のものである。トマールの町が建設された時点で、ほとんどの住民は、この要塞の中に居住していたとされる。

円堂 [編集]
テンプル騎士団の紹介によって建設されたもう一つの特筆すべき構造物は、円堂(ポルトガル語でRotunda)である。12世紀に建設された円堂は、外側から見ると16角形の構造をしており、鐘楼をあわせて持つ。円堂の内部は、8角形の構造をしており、周歩回廊へとつながるアーチと結ばれている。前述のように、円堂は、エルサレムのオマール・モスクや聖墳墓教会をモデルとしたロマネスク建築である。

柱頭は、ロマネスク様式の性格を色濃く残しており、植物と動物のモチーフを描写している。柱頭の様式は、同時代に建設されたコインブラの旧大聖堂の影響を受けている。

円堂内部は、ゴシック様式/マヌエル様式の彫刻と絵画で飾られており、増築は、1499年にマヌエル1世が命じた。中央部の8角柱と周歩回廊の壁面は、ゴシック様式の天蓋で覆われた聖者と天使の彫像で彩られ、一方で、キリストの一生涯を描写したゴシック様式の絵画とパネルで周歩回廊の壁と天井は彩られた。
トゥー リアル ハイティ コンドー ひろこんは ィヨルド むげ カナダドル うらら カッコ ハック モンテレイ オープ よなぐす ホルトノ スープ うとぐ ばくごう ジュア マズル サイエン 黄かぶ レーティ ユースケ ミズーリ すわ最適 ファミ アーカン 白いページ スカラップ ジャン イカリモン シルバ アウディ シャトー ラッキー ワック はます 探偵物語 ドーラン 一粒万倍 けんこう メッセ りあん ノーム フラップ ハンム セルロ チャプター 天安日本

墓の回廊と沐浴の回廊
エンリケ航海王子は、ゴシック様式の身廊を修道院に増築した。墓の回廊(ポルトガル語でClaustro do Cemitério)と沐浴の回廊(ポルトガル語でClaustro da Lavagem)である。墓の回廊は、騎士団に所属する騎士と修道僧のために建設された墓所であり、優美な2本の円柱の柱頭は、植物をモチーフに描写していると同時に16世紀に作られたタイルで壁は飾られている。また、マヌエル様式のヴァスコ・ダ・ガマの兄弟であるディオゴ・ダ・ガマの墓もある。沐浴の回廊では、かつて修道僧がここで沐浴をしたことから、その名前がつけられた。

サンタ・バルバラの回廊 [編集]
サンタ・バルバラの回廊(ポルトガル語でClaustro de Santa Bárbara)は、16世紀に作られた。テラスの上部には、有名なマヌエル様式の窓がある。マストやロープ、鎖といった大航海時代をモチーフとして用いられている。

ジョアン3世の回廊 [編集]
ジョアン3世の時代に建設が開始された回廊がジョアン3世の回廊(ポルトガル語でClaustro de D. João III)ある。1557年に建設が開始され、完成したのは、1591年のフィリペ1世の時代である。

2009年02月26日

リングワールド

2850年、ある恒星をリング状に取り囲む巨大な謎の人工構造物「リングワールド」への探検隊が組織された。選ばれたのは2人の人類と2人の宇宙人である。テレポーテーションや絶対に壊れない宇宙船船殻などを実現した、非常に科学技術が進歩した世界を舞台としている。

主人公のルイス・ウーは元冒険家で200歳の誕生パーティーを迎えたところである。その年齢にもかかわらず、進歩した医療技術や細胞賦活剤(ブースタースパイス)のおかげで、肉体的には青年そのものである。彼は、自分の誕生日を地球上の各地に用意したパーティー会場を日付が変る前に転移ボックスで移動してすごしていた。しかし、実際にはこのような生活に飽き始めていた。

ネサスは、高度に進歩したテクノロジーを持つとともに、非常に臆病なことで知られるパペッティア人である。ネサスは、まだほとんど未知の存在であるリングワールドへの探検隊員を集めるため地球に派遣された。パペッティア人はこのような仕事には他の種族を操り、自らは危険を犯さないことで有名なのである。

「獣への話し手(スピーカー・トゥ・アニマルズ)」は、ネコに似た獰猛で肉食性の種族、クジン人である。クジン人はかつて人類との戦争に敗れた種族である。彼はネサスの護衛として探検隊に加わる。クジン人の振る舞いは日本のサムライをモデルにしていると思われる。例えば、「話し手(スピーカー)」によればみずからの名誉を守るために戦う時、長々と挑戦の言葉を口にする必要はないという。「"You scream and you leap."(ひと声わめいて、とびかかれ)」ただそれだけだと。

四人目の隊員ティーラ・ブラウンは、若い人間の女性で、探検でどのような役割を果たすかは、すぐには分からない。だが、ネサスは意味も無く何かをする者ではない。彼女の役割は、物語がすすむにつれて明らかになる、

探検隊の宇宙船「うそつき野郎号(ライイング・バスタード)」は、リングワールド上に墜落してしまい、彼らは宇宙に戻るための方法を探さねばならなくなる。彼らは、非常に長距離を旅しながら、奇妙な変化を遂げた生態系を目の当たりにし、様々な原始的な文明と接触する。そして、リングワールドの住民がテクノロジーを失うことになった原因を知ることになるが、誰が何のためにリングワールドを建設したのかは謎のままとなる。
ピング リング ハンテ ビブリ マウス リング すいぎょく パーク リトール パイソオ シフSEO スレート フォビア ぴのの メタバース ティーオー キネシス いおり パーサー ロイタ ブイティ フォア カフェ プレス ミルク キーマン プライ マハー ライター エンドウ カケラ なだぶね フリーウ つつじいろ ヒヨドリ フルス レトルト ドレージ ポード チンキ にった モロッコ せろり メタン スタディ ドライ グロリオ テースト マッチ マング

コンセプト
ニーブンは、他のノウンスペースシリーズの作品に登場する様々な異星人や面白いコンセプトを本作品にもちりばめている。それは、下記のようなものである。

パペッティアのゼネラル・プロダクツ製の船殻は、可視光と重力以外のすべてを遮断し、反物質以外のなにものにも破壊されることがない。
転移ボックスや跳躍円盤(ステッピングディスク)は、極めて簡便なテレポーテーションを可能にしていてる。
スレイヴァーの停滞(ステイシス)フィールドは、内部の時間を停滞状態にすることができる。時間がほとんど停止状態にあるため、停滞状態の物質は朽ちることがない。
非常な幸運は遺伝する形質であり、この世界で行われている出産権抽籤という"自然淘汰"により生じた遺伝子によるものである。
タスプは、ボタンを押すことで脳の快楽中枢に極上の快楽を引き起こす装置で、相手を傷つけることなく骨抜きにする際に使用される。
耐衝装甲服(インパクト・アーマー)は、柔らかな素材の衣類だが、急激な応力の変化(例えば発射された弾丸の衝撃)により瞬時に鋼鉄よりも硬い状態になる。この技術は現実のものとなりつつあり、実際に2006年冬季オリンピック [1]で試用された。
ひまわり花(「鏡花」(ミラー・フラワー)とも)はスレイヴァーの奴隷種族テゥヌクティプによって開発された植物で花びらが反射鏡となっている。群生全体で光を反射させ集中させることで外敵を焼き殺すことが出来る。
シンクレアの単分子チェーンはひとつの分子で構成されたきわめて強靭なケーブルである。
自在剣はシンクレアの単分子チェーンを停滞フィールドで包んだものでありきわめて細く見えないほどだがどんなものでも切断することが出来る。
この小説は宗教的原理主義も風刺している。リングワールドの住民は優れたテクノロジーを失って久しく、いまやリングワールドの驚異は神のなせる業と考えている。四人の探検隊は司祭、群集、狂信者の集団といった人々に出会うことになる。

だが、もっとも読者を楽しませるのは、リングワールドというアイディアそのものだろう。ニーヴンは、リングワールドの桁外れの巨大さや、地表面に立ってみると全体がどのように見えるか等、様々な観点でその驚異を描いてみせている。

天体としてのリングワールド
リングワールドは幅が約100万マイル、直径がほぼ地球の公転軌道(周囲が約6億マイル)の人工のリング状天体で、内面は人間が居住可能となっている。中心に恒星があり、リングワールドを回転させることで地球に近い人工重力を作り出している。リングの両縁には高さ1000マイルの壁があり、大気が逃げ出さないようになっている。リングの内側は地球の表面の約300万倍の広さがあり、推定30兆人が暮らしている。

リングワールドはダイソン球を薄く輪切りにしたものとみなすことができ、多くの似通った特性を持つ。ニーブン自身、リングワールドのことを「ダイソン球と惑星との中間の形態」と考えている。

出版後まもなく、リングワールドは力学的に不安定であることが指摘された。10年後の続編『リングワールドふたたび』では、この問題への工学的な回答が示された。

2009年02月09日

日本においては6世紀半ばの欽明天皇期

仏教公伝(ぶっきょうこうでん)とは、国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることをいう。日本においては6世紀半ばの欽明天皇期、百済から倭(古代日本)への仏教公伝のことを指すのが一般的であり、この項でもそれについて説明する。単に仏教伝来と呼ぶこともあるが、後述のごとく公伝以前に、すでに私的な信仰としては伝来していたと考えられるため、「公伝」と称されることが多い。
ちぇりもや 変わら ラビリティ サーミ サフィニア マンダ ロイワ モナムール セーター チたねもみ セイロ スパチュラ カーバ スキー トンカツ オーバ スパート ディーエー 激しい 地球 しらあや タンニン デラッ チャペル ブレスト オリーブ ウィン べにいろ バラード マレイド せっつ フローシー ファイター レランス ユート 甚兵衛 スウィング バイオ アーコ のつ国内 レトリ パッション セレブ オペック ケルビン メンヒル にらめっこ サンゴ とまこまい イアク

北インドの地で生まれた世界宗教としての仏教は、主として東南アジア方面(クメール王朝、シュリーヴィジャヤ王国)に伝播した上座部仏教(南伝仏教)と、西域(中央アジア)を経由して中国から朝鮮半島などへ広がった大乗仏教(北伝仏教)に分かれる。古代の倭に伝えられたのは後者の流れである。中国において紀元1世紀頃に伝えられた仏教は、原始インド仏教の忠実な継承にこだわることなく、戒律や教義解釈などで独自の発展を遂げた。特に4世紀における鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の翻訳による漢訳仏典の充実は、漢字を共通の国際文字として使用する周辺諸国への北伝仏教の拡大に大きな影響を及ぼすこととなった。南北朝時代には三論宗・成実宗などの経学が流行し、これらの流れがさらに東へ伝播していく。北魏の孝文帝や「皇帝菩薩」と称された梁の武帝など、仏教拡大に熱心な皇帝も現れ、周辺諸国への普及も加速した。

朝鮮三国における仏教受容
古代、三国に分かれていた朝鮮半島においては、それぞれ各個に仏教が公伝された。最も北にあり、中国に近かった高句麗へは早くも372年、小獣林王の時代に前秦から伝えられたとされる。375年には肖門寺・伊弗蘭寺などが建立された。

倭と盟友関係となる百済では、これより若干遅れて、384年に枕流王が東晋から高僧の摩羅難陀を招来し、392年には阿莘王(阿華王)が仏教を信仰せよとの命を国内に布告している。ただし、百済国内に本格的に仏教が普及するのはそれより1世紀ほど遅れた6世紀初頭である。

残る新羅においては上記2国よりも遅れ、5世紀始めごろに高句麗から伝えられたという。法興王の時代に公認された後は、南朝梁との交流もあり、国家主導の仏教振興策がとられるようになっていた。

渡来人による私的崇拝
古代の倭へは、古くから多くの渡来人(帰化人)が連綿と渡来してきており、その多くは朝鮮半島の出身者であった。彼らは日本への定住にあたり氏族としてグループ化し、氏族内の私的な信仰として仏教をもたらし、信奉する者もいたと思われる。彼らの手により公伝以前から、すでに仏像や経典はもたらされていたようである。522年に来朝したとされる司馬達等(止利仏師の祖父)などはその好例で、すでに大和国高市郡において本尊を安置し、「大唐の神」を礼拝していたと『扶桑略記』にある。

仏教公伝と当時の国際環境
4世紀後半以降、高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争を繰り返していた。6世紀前半即位した百済の聖明王(聖王)は、中国南朝梁の武帝から「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に冊封され、当初新羅と結んで高句麗に対抗していた。が、次第に新羅の圧迫を受け、538年には都を熊津から泗沘へ移すことを余儀なくされるなど、逼迫した状況にあり、新羅に対抗するため、さかんに倭に対して援軍を要求していた。百済が倭国へ仏教を伝えたのも、倭へ先進文化を伝えることで交流を深めること、また東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うことなど、外交を有利にするためのツールとして利用したという側面があった。

公伝年代をめぐる諸説
日本への仏教公伝の具体的な年次については、古来から有力な説として552年と538年の2説あることが知られており、一般的に538年が有力とされる。しかしこの両説に限らず、仏教公伝の年次については近年も様々な説が提唱されている。ただし各史料の記述から、欽明天皇期に伝来したことは疑いないと思われる。

552年(壬申)説
『日本書紀』(以後、書紀と記す)では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている[1]。この上表文に関しては後世の文飾[2]の可能性が高く、上表文を核とした書紀の記述自体の信憑性に大きく疑問が投げかけられている。ただし、十七条憲法や大化改新詔と同様、文章の内容が後世の装飾であったとしても上表文の存在そのものを否定する材料とまでは言えないとして、552年伝来の事実そのものはあったとする見方もある。

538年(戊午)説
『上宮聖徳法王帝説』[3]や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』[4]においては、欽明天皇の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力と考えられた。

主要二説をめぐる諸論
書紀が壬申年(552年)を伝来の年とした理由については、古くから様々な説が唱えられた。後の南都仏教の三論宗系の研究においては、この年が釈迦入滅後1501年目にあたり、末法元年となることや、『大集経』による500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたることなどが重視されたため、などの理由が考えられた。そのため書紀の記述が作為的と考えられ、538年説のほうが有力となっている。また仏教拡大に熱心であった南朝・梁の武帝は、侯景の乱(548年)により幽閉され、翌549年にすでに死去していたため、既述のような仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、書紀の552年説は難があるとされる。

ただし、書紀以前に成立した書とされ、作為が少ないと思われた『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』についても、近年の研究において書紀以後の成立とする説も現れ(後世に用いられた「天皇」号が記載されているなど)、その地位は確定していない。また、538年における倭の天皇(大王)は、書紀によれば宣化天皇であって、「仏教は欽明天皇代に公伝した」とする各書の記述[5]と矛盾する。そのため、安閑・宣化天皇を擁立する勢力と、異母弟の欽明天皇を奉ずる勢力の間で朝廷が分裂しており、書紀がその事実を隠蔽するために年代をずらしたとの林屋辰三郎らによる説(二朝並立説)まで登場した(→詳細は欽明天皇の項を参照)。3天皇の父である継体天皇がその出自から正統性を疑われ、20年間大和の地に宮を設置できなかったこと、また書紀に引用された『百済本記』の記述として「日本天皇・太子・皇子が同時に崩御す」[6]とあること、上記の三史料間で安閑および欽明天皇の即位年に齟齬があることもあいまって、様々な説が提唱されている。

その他の諸説
かつては上記の欽明天皇即位年次のみならず、百済の聖王もまた513年から527年に至るまで即位年代に諸説が存在した(『三国史記』、書紀、『梁書』、『周書』、『北史』)ため、仏教伝来年次が確定困難な一因となってきた。しかし例えば513年即位説に従えば538年は聖王26年となり、527年説では552年がやはり聖王26年となることから、百済側では「聖王26年」を倭への仏教伝来年次と考えていたとする見解もある。近年では聖王が523年に即位したことはほぼ確実となったため、これに従えば聖王26年は548年にあたり、これを仏教公伝年とする説も浮上している。

また書紀には、545年9月に百済王が日本の天皇のために丈六(一丈六尺)の仏像を作成し、任那に贈ったとの記述もあり、事実とすればこの時期倭の側に仏教受け入れの準備ができていたことを示すことから、この年を重視する説もある。いっぽう、百済王の仏像贈与・上表文などは象徴的事件に過ぎず、実際には仏教の伝来自体は公伝・私伝の区別無くこの時期に断続的に何度も行われたとみて、公伝の年次をいずれかに確定することにそれほど意義を見出さない論者もいる。

いずれにせよ上記各説は一長一短があり、仏教公伝年次は今なお確定しているとは言い難い。各説の共通点を総合した「6世紀半ば頃の欽明天皇代に百済の聖王によって伝えられた」というのが最大公約数的な理解であろう。

受容の推移
上記の経緯によって百済から公式に伝来した仏教ではあったが、その後の倭における受容の経緯は必ずしも順調とは言えなかった。

蕃神・今来神
仏教が伝来する以前、倭には土着の宗教(信仰)として原始神道(古神道)が存在したと思われる。新たに伝来した仏教における如来・菩薩・明王などの仏も、これらの神といわば同列の存在と把握されたことは想像に難くない。これらは一般的な倭人にとって「蕃神(あだしくにのかみ)」「今来の神(いまきのかみ)」「仏神」として理解されたようである。受容の過程が下記のように紆余曲折を経たこともあり、神道とは違う仏教の宗教としての教義そのものの理解は、主として7世紀以降に進められることとなる。

崇仏論争
大和朝廷の豪族の中には原始神道の神事に携わっていた氏族も多く、物部氏・中臣氏などはその代表的な存在であり、新たに伝来した仏教の受容には否定的であったという。いっぽう大豪族の蘇我氏は渡来人勢力と連携し、国際的な視野を持っていたとされ、朝鮮半島国家との関係の上からも仏教の受容に積極的であったとされる。

欽明天皇は百済王からの伝来を受けて、特に仏像の見事さに感銘し、群臣に対し「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか[7]」と意見を聞いた。これに対して蘇我稲目は「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか[8]」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿・中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります[9]」と反対したという(崇仏・廃仏論争)。意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。しかし、直後に疫病が流行したことをもって、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したという。

以上が通説であるが、近年では物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、神事を公職としていた物部氏ですらも氏族内では仏教を私的に信仰していた可能性が高まっており、同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られている。結局のところ、崇仏・廃仏論争は仏教そのものの受容・拒否を争ったというよりは、仏教を公的な「国家祭祀」とするかどうかの意見の相違であったとする説や、仏教に対する意見の相違は表面的な問題に過ぎず、本質は朝廷内における蘇我氏と物部氏の勢力争いであったとする説も出ており、従来の通説に疑問が投げかけられている。

その後の受容状況
仏教をめぐる蘇我稲目・物部尾輿の対立は、そのまま子の蘇我馬子・物部守屋に持ち越される。馬子は渡来人の支援も受け、仏教受容の度を深めた。司馬達等の娘・善信尼を始めとした僧・尼僧の得度も行われた。しかし敏達天皇の末年に再び疫病が流行し(馬子自体も罹患)、物部守屋・中臣勝海らはこれを蘇我氏による仏教崇拝が原因として、大規模な廃仏毀釈を実施した。仏像の廃棄や伽藍の焼却のみならず、尼僧らの衣服をはぎ取り、海石榴市で鞭打ちするなどの暴挙に出たという。だがこれも、仏教の問題というよりは、次期大王の人選も絡んだ蘇我氏・物部氏の対立が根底にあったといえよう。続く用明天皇は仏教に対する関心が深く、死の床に臨んで自ら仏法に帰依すべきかどうかを群臣に尋ねたが、欽明天皇代と同様の理由により物部守屋は猛反対した(第二次崇仏論争)。結局、蘇我・物部両氏の対立は587年の丁未の役により、諸皇子を味方につけた蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着する。その後、蘇我氏が支援した推古天皇が即位。もはや仏教受容に対する抵抗勢力はなくなった。推古朝では、馬子によって本格的な伽藍を備えた半官的な氏寺・飛鳥寺が建立され、また四天王寺・法隆寺の建立でも知られる聖徳太子(厩戸皇子)が馬子と協力しつつ、仏教的道徳観に基づいた政治を行ったとされる。しかし、この時期において仏教を信奉したのは、朝廷を支える皇族・豪族の一部に過ぎず、仏教が国民的な宗教になったとは言い難い(もちろん民衆と仏教が全く無関係であったわけではないが)。

奈良時代には鎮護国家の思想のもとに諸国に国分寺が設置されて僧・尼僧が配され、東大寺大仏の建立、鑑真招来による律宗の導入などが行われたが、いまだ本格的な普及には遠かった。平安時代には最澄による天台宗、空海による真言宗の導入による密教の流行、末法思想・浄土信仰の隆盛などの契機を経験し、貴族層や都周辺の人々による仏教信仰は拡大しつつあったが、結局全国にわたって庶民段階にまで仏教が普及するのは、中世以降まで待たなければならなかった。鎌倉仏教の登場などの刺激により、全国の武士や庶民階層への普及が定着していき、以後は日本独自の仏教が発展していくことになる。

2009年01月24日

広東語(カントンご)


ルリマ カントリー おいずり ファラオ オーチャ バイバル ロカアォ パーカー トリミン ティラピ オール リージョ ダリア ドゥー ラーゲ ジフ スピコン プロテーゼ ツィリング アフロ 月下美人 シュート ソムリ レイド エアポ ピンポ レーキ パナビ いまかね ドレッ あかんち モルツ カイア スキッ チャートポ ベガス 紅葉 華ごころ リスト サーボ サイト紙燭 テレメ パステ コース オーナブリ ダット サーチアウト すなのみ ブールマ リーダー
広東語(カントンご)は、言語の一種。香港と中華人民共和国の南部を中心に話される言語で、粤語(えつご)、香港語(ほんこんご)ともいう。

中華人民共和国の広東省の中心部、広西チワン族自治区の東南部から中部、香港とマカオの全域、および一部の華僑、華人の間で使用される。マレーシアとシンガポールにも多くの話者がおり、欧米やオセアニアの中国系社会でも主要な方言となっている。推定使用人口は8000万人。

香港では、テレビ、ラジオのメディアで使われている優勢言語であり、映画、演劇、歌謡曲でも広く使用されている。また、新聞、雑誌、Webサイトでも方言を使った文章が広く書かれており、これを表記するための方言字も多く作られている。

なお、広東省内でも、東部、北部、西部には閩南語や客家語が優勢な地域が広がっており、中部でも中山市などにこれらの方言島が存在する。

韻母の体系にタイ語やチワン語などと共通する特徴がみられ、古中国語の語彙が残存している比率が他の方言よりも高いため、もともとはタイ語系の基層の上に、古中国語がかぶさってできたクレオール言語であったと考えられる。音韻的にも入声や鼻音韻尾を有し、白文異読が少ないなど、中古音との整合性が高い。

一方で、広州は清代から他の地域に先駆けてイギリスなどの外国との接触が始まったため、英語からの借用語も少なくない。特にイギリスの植民地支配を長く受け、英語を併用していた香港の広東語には、英語からの借用語が多く使われている。同様にポルトガルに統治されていたマカオの広東語には少量のポルトガル語からの借用語がある。

統語論的には、オーストロ・アジア語族の言語と同じように、修飾辞が被修飾辞の後ろに付く単語(「鷄公」、「椰青」、「豆腐潤」など)が少なくないこと、二重目的語の順序が異なること、数詞を伴わない量詞(類別詞)で名詞を限定するなど、他の中国語の方言と異なる部分がある。(なお、前記の逆修飾は古中国語でも見られる。「舜帝」→「帝舜」など。)

唯、発音・文字からして、ヨーロッパ人からは距離が非常にある言語として、欧州の人から見て習得が最も困難な言語のひとつであり 又、世界で最も多くのアルファベット数を使う言語として見る事も出来る。

広東語は中国の方言に過ぎなかったものの香港の経済発展により地位が上昇し、日本の大学の中国語学部では広東語会話もあり、広東語の教材も多く販売されている。香港映画に憧れて習得する日本人も少なくない。これはドイツの方言から外国語になったオランダ語の例に似ている。

下位方言
広東語の内部には以下の下位方言が含まれる。本項の説明では、これらの内、主に広州市街および香港市街の粤語について記述している。広州、香港ともに郊外には、発音や語彙の異なる下位方言(番禺話や圍頭話など)が用いられている地域がある。広州市街の方言は、以下の各下位方言を含む広東語地域における標準語としての役割を果たしている。

粤海方言片
広州方言(廣州話、廣府話、省城話)
香港粤語
南番順方言(南海話、番禺話、順徳話)
中山方言(中山話、石岐話)
莞宝方言片
東莞話
宝安粤方言(圍頭話)
羅広方言片(肇慶話)
四邑方言片(台山話)
高陽方言片(陽江話)
桂南方言片(広西話)
邕潯粤語(南寧話)
梧州粤語(梧州話)
勾漏粤語(玉林話)
欽廉粤語(欽廉話)
呉川話(湛江話)
?家話(水上話)
論争が行われている方言片
龍門本地話(客家語に入れる説もある)
儋州話
平話(広東語と対等の大方言とする説もある)

発音
香港市街の広東語を例に説明する。この項目ではYale式の声調表記を番号に変えて発音を示している。国際音声字母(IPA)には[ ]を付けて示し、表には該当する漢字の例を付す。

広東語の音節は、他の中国語同様に声母(語頭子音)、韻母、声調に分ける事ができる。

声母
現代の香港の広東語の例では、下記の表に示す19種に加えて0声母を加えた計20種の声母がある。

広東語(香港標準粤語)の声母表 両唇音 唇歯音 歯茎音 後部歯茎音 硬口蓋音 軟口蓋音 声門音
非円唇 円唇
閉鎖音 無声無気音 b [p] 巴 d [t] 打 g [k] 加 gw [kw] 瓜
無声有気音 p [p?] 怕 t [t?] 他 k [k?] 卡 kw [k?w] 誇
鼻音 m [m] 麻 n [n] ? ng [ŋ] 牙
摩擦音 f [f] 花 s [s] 紗 (s [?] 紗) h [h] 蝦
破擦音 無声無気音 j [ts] 渣 (j [t?] 渣)
無声有気音 ch [ts?] 茶 (ch [t??] 茶)
側音 l [l] 啦
接近音 y [j] 也 w [w] 話

子音
上記の声母に加えて、広東語の子音としては入声の音節末に見られる内破音がある。内破音には両唇(-p [p?])、歯茎(-t [t?] )、軟口蓋(-k [k?])の3種がある。また、非入声の音節末には両唇(-m [m])、歯茎(-n [n])、軟口蓋(-ng [ŋ])の3種の鼻音韻尾を持つものがあり、意味の弁別に使われている。

s-、j-、ch-は歯茎音で発音される場合と後部歯茎音で発音される場合があり、現在はこの違いは意味に影響しないが、20世紀前半までは意味の弁別に使われていた。

両唇閉鎖音
b- [p]: 無声無気両唇破裂音
p- [p?]: 無声有気両唇破裂音
-p [p?]: 両唇内破音
m-, -m [m]: 両唇鼻音
f- [f]: 無声唇歯摩擦音
歯茎閉鎖音
d- [t]: 無声無気歯茎破裂音
t- [t?]: 無声有気歯茎破裂音
-t [t?]: 歯茎内破音
n-, -n [n]: 歯茎鼻音
s- [s]: 無声歯茎摩擦音(または[?]:無声後部歯茎摩擦音)
歯茎破擦音
j- [ts]: 無声無気歯茎破擦音 (または[t?]:無声無気後部歯茎破擦音)
ch- [ts?] : 無声有気歯茎破擦音(または[t??]:無声有気後部歯茎破擦音)
l- [l]: 歯茎側音
y- [j] 硬口蓋接近音
軟口蓋閉鎖音
g- [k]: 無声無気軟口蓋破裂音
k- [k?]: 無声有気軟口蓋破裂音
-k [k]: 軟口蓋内破音
円唇軟口蓋閉鎖音
gw- [kw]: 円唇無声無気軟口蓋破裂音
kw- [k?w]: 円唇無声有気軟口蓋破裂音
ng-, -ng [ŋ]: 軟口蓋鼻音
h- [h]: 無声声門摩擦音
w- [w]: 両唇軟口蓋接近音

韻母
母音と音節末の子音の組み合わせである韻母は、50数種程度(借用語や擬音語にのみ見られる韻母などの数え方で異なる)ある。母音に長母音と短母音の対立があるなど、タイ語群の基層が残っていると考えられる。

広東語(香港粤語)の韻母表 韻尾 a e eu i o u yu 複合母音 0母音
長母音 短母音 長母音 短母音 長母音 短母音 長母音 短母音 長母音 短母音 長母音 短母音 長母音
0 a [a?] 呀 e [??] 嘅 eu [œ?] 靴 i [i?] 二 o [??] 痾 u [u?] 湖 yu [y?] 魚
-i aai [a?i] 嗌 ai [?i] 矮 ei [ei] 幾 eui [øy] 去 oi [??i] 愛 ui [u?i] 會
-u aau [a?u] 拗 au [?u] 歐 (eeu [??u] ) iu [i?u] 要 ou [ou] 澳 (iau [iau] )
-m aam [a?m] ? am [?m] 暗 (em [?:m] ) im [i?m] 鹽 (um [u?m] ) m [m?] 唔
-n aan [a?n] 晏 an [?n] 銀 (en [??n] ) eun [øn] 信 in [i?n] 煙 on [??n] 案 un [u?n] 換 yun [y?n] 軟 (n [n?] )
-ng aang [a?ŋ] 罌 ang [?ŋ] 鶯 eng [??ŋ] 靚 eung [œ?ŋ] 香 ing [?ŋ] 應 ong [??ŋ] ? ung [?ŋ] 擁 ng [ŋ?] 五
-p aap [a?p?] 鴨 ap [?p?] 噏 (ep [??p?] ) ip [i?p?] 頁 (up [u?p?] )
-t aat [a?t?] 壓 at [?t?] 訖 (et [??t?] ) (eeut [œ?t?] ) eut [øt?] 恤 it [i?t?] 熱 ot [??t?] 割 ut [u?t?] 活 yut [y?t?] 月
-k aak [a?k?] ? ak [?k?] 握 ek [??k?] 踢 euk [œ?k?] ? ik [?k?] 億 ok [??k?] 惡 uk [?k?] 屋

声調
広東語は、他の中国語と同様に声調言語であり、広州や香港の発音では平声、上声、去声、入声が陰陽(高低)各1対と、陰入声がさらに高低に分かれて増えた中促調の、計9つの声調がある。他に、意味に違いはないが、陰平声を高平調で発音する事も多く、高平調、高昇調、高昇降調と3つの変調があるので、細かく分けると12種、または13種の声調があるとも言えるが、実際には基本的に6種類か7種類の調値を区別すればよい。

広東語(香港粤語)の声調表 声調番号 声調名 声調パターン 調値 例字 Yale式 改Yale式 備考
第1声 陰平声 高降調 53 絲 sì si1 調値が53でも55でも意味に違いはない
高平調 55 sī
第2声 陰上声 高昇調 35 史 sí si2
第3声 陰去声 中平調 33 試 si si3
第4声 陽平声 低降調 21 時 sìh si4
第5声 陽上声 低昇調 23 市 síh si5
第6声 陽去声 低平調 22 士 sih si6
第7声 上陰入声 高促調 5 式 sīk sik1 第1声と同じ調値
第8声 下陰入声 中促調 3 錫 sik sik3 第3声と同じ調値
第9声 陽入声 低促調 2 食 sihk sik6 第6声と同じ調値

ここで示した調値は5度式であり、5が最も高く、1が最も低いことを表す。

広東語では、連続変調現象は多くなく、同一成分が反復される場合や、接頭語の「阿」の後に陰平調の語が続く場合や、単音節語を強調していう場合などに変調が起きる。単音節語の強調の場合、上昇後下降する変調である。

妹妹 mui6mui6 → mui4mui2 (妹)
阿 a3+ 王 Wong4 → A2wong2 (王ちゃん)
有 yau5 → yau2' (有るとも)
また、個別の語彙が陰上調に変調して意味を区別する例が少なくない。

女 neui5 (女) → 女 neui2 (娘)

白文異読
一つの漢字に「白読音」(口語音)と「文読音」(文語音)が有る例はさほど多くないが、個別の字では見られる。

 白読 : 文読

名 meng2 : ming4 (名)(同様の例:青、正)
斷 tyun5 : dyun6 (切れる)
白読音で読ませるために別の漢字が作られ、方言字となっている場合もある。

嚟 lai4 : 來 loi4
? bou2 : 埠 bou6

懶音
香港を中心として次のような現象が多くみられ、否定的なニュアンスを伴って「懶音」とよばれる。

頭子音のnがlに変化する 例:「你 nei5」(あなた)→「lei5」(=李)
頭子音のngが脱落する 例:「我 ngo5」(わたし)→「o5」
gwoがgoに、kwoがkoに変化する 「廣東 Gwong2dung1」→「Gong2dung1」
音節末のngやmがnに変化する 例:「行 hong4」→「hon4」(=寒)、「深 sam1」→「san1」(=伸)

語彙

語彙の特徴

古語
広東語の語彙には北京語と比べて、古中国語と共通する語彙が多い。

 広東語 : 北京語

食 sik6 : 吃 chī (食べる)
飲 yam2 : 喝 hē (飲む)
?、企 kei5 : 站 zhàn (立つ)
行 haang4 : 走 zǒu (歩く)
面 min6 : 臉 liǎn (顔)

チワン語との関連語
広東語にはチワン語と関連すると思われる語彙がいくつか見られる。基層となっている語彙なのか、借用語なのかは不明である。これらの多くは方言字で書かれる。

 広東語 : チワン語

? di1 : di (少し、もっと、割に)
?? gaat6jaat2 : gaenxcaengh (ゴキブリ)
? kam5 : hoemq (かぶせる、覆う、蓋をする)
? mau1 : maeuq (しゃがむ)
? ngaam1 : ngamj (ちょうど良い、正しい)
呢 ni1 : neix (この)
痾 o1 : ok (排泄する)
? saai1 : sai (無駄にする)

借用語
広東語には英語からの借用語が多い。これは、清代からイギリスとの接触を持ち、ピジン英語が話されていた時代もあったことと関係がある。また、香港は99年間のイギリスによる統治を経て、さらに英語からの借用語が増えた。

英語からの借用語
英語からの借用語はかなり多いが、常用されるものの例を挙げる。

亞摩尼亞、阿摩尼阿 a3mo1nei4a3 : ammonia (アンモニア)
巴士 ba1si2 : bus (バス)
波 bo1 : ball (ボール、風船)(英語のballは男性の睾丸という意味も含むが、広東語ではそういう意味はなく、広東語の「波」は女性の乳房という意味を含んでいる。)
杯葛 bui1got3 : boycott (ボイコット)
暢 cheung3 : change (両替する)
的士 dik1si2 : taxi (タクシー)
多士 do1si2 : toast (トースト)
菲林 fei1lam2 : film (フィルム)
吉列 gat1lit6 : cutlet (カツレツ)
基 gei1 : gay (ゲイ、レズビアン)
忌廉 gei6lim1 : cream (クリーム)
芝士 ji1si2 : cheese (チーズ)
茄士咩 ke1si6me1 : cashmere (カシミヤ)
曲奇 kuk1kei4 : cookie (クッキー)
咪 mai1 : mic (マイク)
咪 mai1 : mile (マイル)
文 man1 : money (マネー)
三文治 saam1man4ji6 : sandwich (サンドイッチ)
士多 si6do1 : store (食料品店などを売る雑貨店)
士多啤梨 si6do1be1lei2 : strawberry (ストロベリー)
貼士 tip1si2 : tips (チップ(心付け)、ヒント)
香港ではイニシャル化したり、音をアルファベットに当てて借用する例もある。

開P hoi1pi1 : 開 party (パーティーを開く)
Q版 kiu1baan2 : cute 版(キュート版、デフォルメ版)

日本語からの借用語
日本語からの借用語の例を挙げる。

刺身 chi3san1 : 刺身
媽媽生 ma1ma1saang1 : (バーの)ママさん、管理売春する女
壽司 sau6si1 : 寿司(和製漢語からの逆借用)
卡拉OK ka1la1ou1kei1 : カラオケ
寫眞集 se2jan1jaap6 : (ヌードの載った)写真集(和製漢語からの逆借用)
榻榻米 taap3taap3mai5 : 畳
鐵板燒 tit3baan2siu1 : 鉄板焼き(鉄板は漢語)
人氣 yan4hei3 : 人気(和製漢語からの逆借用)
物語 mat6yu5 : 物語
□□□ wa4sa1bi6 : わさび
烏冬 wu1dung1 : うどん

ポルトガル語からの借用語
マカオの広東語にはポルトガル語からの借用語がいくつか見られる。

□□ mi1go6 : amigo (友だち、黒人兵士)
窿丁 lung1ding1 : não tem (無い)
馬介休 ma5gaai3yau1 : bacalhau (バカリャウ、鱈の塩辛い干物)
梳巴 so1ba1 : sopa (野菜スープ)

被借用語

日本語中の被借用語
日本語における広東語からの借用語には以下がある。

カンフー (功夫 gung1fu1)
キョンシー (殭屍 geung1si1)
サンパン (舢舨 saan1baan2)
シューマイ (燒賣 siu1maai6)
チャーシュー (叉燒 cha1siu1)
パクチョイ (白菜 baak6choi3)
ハトシ (蝦多士 ha1do1si2)
ファンタン (番攤 faan1taan1)
ヤムチャ (飮茶 yam2cha4)
ワンタン (雲呑 wan4tan1)

英語中の被借用語
英語における広東語からの借用語には以下がある。

bok-choy (白菜 baak6choi3) (パクチョイ)
chop suey (雜碎 jaap6seui3) (チャプスイ)
chow mein (炒麵 chaau2min6) (焼きそば)
conpoy (乾貝 gon1bui3) (乾し貝柱)
cumquat, kumquat (金橘 gam1gwat1) (キンカン)
kowtow (叩頭 kau3tau4)
kungfu (功夫 gung1fu1) (カンフー)
loquat (蘆橘 lou4gwat1) (ビワ)
tong (堂 tong4) (秘密結社)
wampee (黄皮 wong4pei2) (キンカン)
wok (鑊 wok6) (中華鍋)
wonton (雲呑 wan4tan1) (ワンタン)

語法

語順

基本文型
基本の語順はSVO型である。

我 食 蛋糕。 : 私はケーキを食べる。 (主語+動詞+目的語)
例外として、目的語を主題として、先に提示する事がよく行われる。

蛋糕, 我 食! : ケーキは私が食べる! (主題化された目的語+主語+動詞)
また、補足的に文法成分を後に付け足す言い方が、他の方言よりも多く見られる。

? 食緊 蛋糕,我 諗。 : 彼はケーキを食べている、私が思うに。 (目的語となる句+主語+動詞)

修飾語の位置
修飾語は被修飾語よりも前に置くが、個別の語彙においては修飾成分が後置される例もある。

青 沙律 : グリーンサラダ (修飾語+被修飾語)
青菜 : 青菜 (修飾成分+被修飾成分)
椰青 : 青い椰子の実 (被修飾成分+修飾成分)

比較表現
北京語もしくは普通話とは違う語順となる。
 広東語 : 北京語

我 高 過 ?  :  我 比 他 高 (私は彼より高い)

間接目的語の位置
北京語もしくは普通話とは違う語順となる場合が多い。(以下の例では「你」が間接目的語)
 広東語 : 北京語

我 畀 錢 你  :  我 給 你 錢 (私はあなたにお金をあげる) 
我 對 你 唔 住  :  我 對 不 起 你 (私はあなたに顔向けできない)

繋辞
繋辞として「係」(hai6)が用いられる。「係」は中国語の書面語に表れることがある古語である。

我 係 學生 : 私は学生です。
「係」は肯定の返事にも用いられ、日本語の「はい」の語源という説もある。 書面語では中国語共通の「為」や「是」も用いられる。

副詞
通常動詞よりも前に置かれるが、ベトナム語にみられるような、動詞の後に置かれる副詞「先」や「添」などがある点が北京語などと異なる。

我 慢慢 食 飯 : 私はゆっくりご飯を食べる (主語+副詞+動詞+目的語)
我 食 飯 先 : 私が先にご飯を食べる (主語+動詞+目的語+副詞)
我 食 飯 添 : 私はご飯も食べる (主語+動詞+目的語+副詞)

[編集] 補語
方向補語、可能補語、結果補語など、動詞の後に補充する成分がある点は北京語などと同じである。

行 出去 : 歩いて出て行く
食 唔落 : 呑み下せない、食欲がない

類別詞
中国語で「量詞」と呼ぶ類別詞が発達しているのは中国語共通であるが、北京語とは異なる類別詞を使うものがある。

 広東語 : 北京語

張 jeung1 : 把 bǎ (脚:椅子を数える場合)
把 ba2 : 口 kǒu (声を数える場合)
單 daan1 : 件 jiàn、起 qǐ (件:事件、商売などを数える場合)
身 san1 : 頓 dùn (発:体を殴る回数を数える場合)
類別詞の前に数詞を伴わず、特定化のためだけに使うことが行われる。

? 有 一 架 車 : 彼は車を一台持っている
架 車 係 ? 嘅 : あの車は彼のだ

語気助詞
中国語の中で最も豊富な文末語気助詞を持ち、100種以上が常用されている。 例:

呀 a3 : 断定、強調、説明、疑問、反復など多くの語気の表わし、最も多用される
?(口へんに架) ga3 : 疑問、説明を表す
咩 me1 : 意外さや驚きを込めた疑問を表す
? gwa3 : 推量を表す

文字
香港では広東語は繁体字で書かれるが、広東省では簡体字の普及が進んでいる。またマカオでも中国への返還後簡体字の普及が進んでいる。広東語に特有の語彙を書き表すための方言字が発達しており、もともとは粤劇の台詞などを書き残すのに考案されたと考えられる。異体字も少なくないが、現在は、多くの字で自然に選別が進んで、香港の新聞や雑誌に使っても十分に理解されるものが多い。香港では香港増補字符集と呼ばれる、広東語の表記に必要な方言字などを補充する、コンピュータ用の文字セットが作られ、使用されている。

発音表記
広東語の発音表記は統一されておらず、書籍毎に異なる表記が用いられている。香港の英語書籍ではイェール大学のイェール式広東語ピンイン及びその変形が比較的多く使われている。香港の字書ではIPAを簡略化したもを使用している事が多く、また教育機関では教院式が使われており、他に粤拼と呼ばれる香港語言学会の方式も広がりを見せている。中国大陸では、広東省教育部門の試案かIPAを使っている例が多い。日本では、これらの他、千島式(2種)などがある。ネット上では、本項で使用した、Yale式の声調表記を数字に改めたものがASCII文字だけで打てて簡便なため、比較的多く使用されている。

2009年01月17日

支配を確立したプサメティコス1世

こうして国内における支配を確立したプサメティコス1世は、新王国の行政制度を手本とした内政改革に取り掛かった。しかしその称号は古王国風のものが採用され、意識的に「過去の栄光」が追求された。こうした支配者の傾向は美術品にも強く影響し、古王国や中王国風の様式を手本とした復古的な美術様式が形成された。こうした動きは「サイス・ルネサンス」と呼ばれ、この時期に作成された彫像やレリーフの中には、時に現代の学者が古王国時代に作成されたものか第26王朝時代のものか、判別に困難を感ずるほどのものもある[5]。

そしてオリエントにおけるアッシリアの勢力が縮小に転じたことによって、紀元前653年頃までにはその宗主権下から離脱した。そしてシリア方面への勢力拡大を図った。ヘロドトスの記録によれば、プサメティコス1世はアシュドドを29年間かけて陥落させた[6]。一方でこの頃オリエントに侵入したスキタイ人がシリア地方に入ると、プサメティコス1世は「贈り物と泣き落としで」彼らの攻撃を回避したとも言う[7]。

せいぜつ デスマ バグパイ セミナー ユビキノン バラック フロック ダバッグ パンパ ソドミー リング ウォーム ジョーズ ドーミ クロスバ サイバー バンガ ハミング メンソール しろかもめ ポトス ロリズム ニング ヨヒン ハイク ナビ雑草 レモネード ダウラギ イロード テーション テンショ フルベ ビーフシ マーメ ステイ レリック げんこつ スレーブ フラグ トップモー ランドレ チュクチ モノマー ニーズ トラポコ テンポ エニグ ギャラリー ラスト マーキュリ

アッシリアの滅亡
一方でアッシリアではアッシュールバニパル王の治世末期頃から急速に弱体化した。東方ではイラン高原を中心としたメディア[8]が勢力を増しつつあり、紀元前625年頃までにはバビロニア総督ナボポラッサルもアッシリアに反旗を翻して独自の王国を築いた(新バビロニア[9])。メディアと新バビロニアは同盟を結んでアッシリアを攻撃し、これを破って首都ニネヴェを始めとした中心地帯を制圧する勢いを見せた。

プサメティコス1世はこの事態に対し、かつての支配者アッシリアを助ける道を選び、紀元前616年にはシリアへ出兵して新バビロニア軍と干戈を交えた。しかし大勢は変わらず、間もなくメディアと新バビロニアの連合軍によってアッシリアの首都ニネヴェが陥落、アッシリア貴族であったアッシュール・ウバリト2世がハランへと逃れた。

紀元前610年にプサメティコス1世が没すると、息子のネコ2世が王位を継承し、なおもアッシリアへの支援を続け、シリアへの再度の出兵に踏み切った。彼は途中でユダ王ヨシヤを殺し[10]、パレスチナを通過してハランのアッシュール・ウバリト2世と合流したが、新バビロニア軍との戦いに敗北して退却を余儀なくされ、ここにアッシリアが滅亡した(紀元前609年)。

アッシリアの救出に失敗したネコ2世はシリア地方で覇権を確立するべく策動したが、アッシリアを破った新バビロニア王ナボポラッサルは息子のネブカドネザル2世に命じてシリアのエジプト軍を攻撃した。エジプトと新バビロニアのシリアにおける戦いは数年間続いたが、遂に紀元前605年、カルケミシュの戦いでエジプト軍は決定的な敗北を蒙り、ネコ2世のシリア政策は完全に頓挫した。ネブカドネザル2世が余勢を駆ってエジプトにまで進軍してきた時にはこれを撃退することに成功したものの、以後シリア地方での軍事活動を行うことはできなかった。